現在の境内と、中世に描かれた境内を比べて、位置関係を確認しながら境内を散策してみてください。
この地域が昔のままであることを実感することでしょう。
地図内の番号をタップ(クリック)すると、詳細情報が表示されます。
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白山平泉寺に身を寄せた源義経一行に対し、当時の長吏が「明朝、朝一番に鳥が鳴いたら門が開く(ので早く出立しなさい)」と伝え、一行を逃したという小道です。
源義経一行が奥州へ向かう際に白山平泉寺に立ち寄り休んだという観音堂です。平泉寺の僧にとがめられますが、当時の長吏が味方となり武蔵坊弁慶の弁解を認め義経一行を見逃そうと合奏をもちかけます。平泉寺の稚児の琵琶と笙(しょう)に合わせて山伏に変装した大和坊(実は義経)が笛を吹き、周囲はすっかり魅了されたと言います。
1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失した際に残ったという大杉のひとつ。
南谷の薬医門 坊院の土塀を発掘成果をもとに再現しました。
1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失してから、多くの建物跡が土に埋もれてしまいました。勝山市では平成元年から平泉寺の発掘調査を行い、これらの調査によって当時の生活様式や屋敷の大きさ、数などが明らかになってきました。昔の平泉寺がいかに栄えていたか発掘の成果については「歴史探遊館まほろば」に詳細を展示しています。
16世紀中ごろ、大石垣を築くため、弟・玉泉坊が持つ大石に対抗し兄・宝光院がこの場所の岩を掘り出そうとしました。朝倉義景が巨石を運び合う争いを収めましたが、岩を運べなかった兄・宝光院がこの大岩の前で弟・玉泉坊を滅ぼす方法を企んだと伝えられています。
三之宮の裏に泰澄大師が登ったとされる白山への登山道があります。この道を白山禅定道、または越前禅定道と呼びます。1996年(平成8年)に歴史の道100選に選定されました。
祀られているのは、栲幡千々姫尊(たくはたちぢひめのみこと)で安産の神様として知られています。参拝するとお産が軽くなるといういわれがあり、お参りの帰りに社務所で腹帯を求められます。
かつてはここに三之宮の拝殿がありました。楠木正成の甥の恵秀律師(えりゅうりっし)がこの拝殿でお勤めをしていると楠木正成が鎧甲の武者姿で目の前に現れたので、恵秀律師が不思議に思い調べてみると、この日に正成が湊川の合戦で戦死していたことを知ります。その後恵秀律師は供養の石塔を建てました。1336年(延元元年)建立。
1574年(天正2年)の一向一揆の時に拝殿は焼失し、この石塔も一部失われましたが、1668年(寛文8年)に福井藩主松平光通の奉納により補修して周囲に玉垣をもうけました。
平安の頃より六十六部といって滅罪の経典である法華経を写経し、その一部ずつを日本六十六ヶ所の神社に納めながら諸国を巡礼しました。とくに江戸時代には盛んに行われ、越前での納経所は当社だけです。境内にある結神社の傍らには「天下泰平 日月晴明」「大乗妙典六十六部廻國供養塔」と刻した石碑が現存しています。
本殿に向かって左の社です。大己貴尊(おおなむちのみこと)を祀っています。大己貴尊は大国主命(おおくにぬしのみこと)とも申し上げます。
本殿に向かって右の社を別山社といい、天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)を祀っています。天忍穂耳尊は、天照大神(あまてらすおおかみ)の子、天孫降臨された瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父にあたります。
白山の主峰である御前峰の神・伊弉諾尊(いざなみのみこと)をお祀りしています。本社は1795年(寛政7年)に第12代福井藩主・松平重富により再建されました。総欅(そうひのき)の入母屋造榑葺(いりおもやづくりくれぶき)。外観は白木造りですが、内部は美しく彩られています。
御本社を中心に右に別山社、左に越南知社を配するのは、白山を構成している3つの山と神々をあらわしています。今は失われていますが、中世から近世にはさらに金釼社(かなつるぎしゃ)と加宝社(かほうしゃ)が加えられ、五社が整然と立ち並ぶさまは壮観であったことでしょう。
本社の内扉は33年に一度開けられます(御開帳)。次の御開帳は2025年(令和7年)5月です。
本社の龍の彫刻にご注目ください。唐破風(からはふ)を支える柱に見事な昇り龍と降り龍の彫刻が施されています。
巨岩で、旧境内にはこのような巨石がいくつも見られます。
正面の額に「中宮平泉寺」とある拝殿は、江戸時代に作られた寄棟檜皮葺(よせむねひわだぶき)で平安時代の風情を残しています。1574年(天正2年)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、幅が46間(およそ83メートル)あったようで京都の三十三間堂より大きな建物でした。左右に点在する礎石が当時の大きさを物語っています。
拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩主松平家の奉納品が多く、ほとんどが勝山市の文化財に指定されています。その中でももっとも古い絵馬は1598年(慶長3年)のものです。
この鳥居は両部鳥居で、神仏習合の形式です。鳥居は一向一揆で消滅しましたが、1778年(安永6年)に再建されました。中央の額には「白山三所大権現」と書かれており、中御門天皇の皇子・天台座主・公遵法親王の筆と伝えられています。鳥居の中央に屋根がついているのはこの額を護るためです。額内の三所とは白山の御前峰、大汝峰、別山 を指しています。
三又に分かれた杉は泰澄のお手植えと伝えられています。幹が途中から3つに分かれ、白山三山(御前峰・大汝峰・別山)を象徴していると言われています。
当社は曹洞宗(そうとうしゅう)とも縁が深くあります。曹洞宗の開祖であり、永平寺を開いた道元禅師(どうげんぜんじ)は、宋に渡るにあたり白山の神の加護を祈りました。また、永平寺第三世義介禅師は、白山の神に水を請うた翌日、永平寺に清い水が湧き出たので、これを白山水と名付けました。
社務所前の石燈籠は、1690年(元禄3年)に永平寺の万圓禅師(ばんえんぜんじ)により寄進されたものです。現在も、毎年7月永平寺の雲水(修行僧)は必ず白山の山開きの日に白山に登り、下山の折に白山平泉寺を訪れ神前読経をします。
室町幕府の管領・細川武蔵守高国が作ったと伝わる庭園。自然石を利用した枯山水は、1872年(明治5年)国の名勝に指定されました。社務所横の入り口から庭園に入ることができます。入場料50円。
一向一揆で平泉寺が焼失した時、難を逃れた顕海僧正が9年後に戻ってきて住まいとしたのがこの玄成院です。現在は社務所でお札やお守り、朱印を受けられます。
桃山時代、拝殿の内に掲げられている絵馬から夜中に神馬が抜け出して村の田畑の作物を喰い荒したので、この場所を馬の飼葉料にしたと伝えられています。現在も草を刈り残しています。
昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていました。菩提を求めて身を清め慎むということで「精進坂」と呼ばれてきました。
1574年(天正2年)一向一揆により全山焼失しましたが、その難を逃れた賢聖院(げんじょういん)の顕海僧正(けんかいそうじょう)は9年後二人の弟子と共に平泉寺を再興しました。後に顕海は玄成院(賢聖院の漢字表記が変わる)を弟子の専海に譲り、自ら隠居寺にした寺が顕海寺です。
平泉寺白山神社を開かれた泰澄大師の供養塔です。室町時代に作られたもので、高さは1メートル47センチあり、その時代の供養塔としてはたいへん大きなものでした。泰澄が平泉寺を開き、修行の日々を過ごしたので建てられたものです。泰澄大師の墓は越前町にある大谷寺(おおたんじ)にあります。
「泰澄大師廟」前の石で、足の形をしたくぼみが弁慶の足跡と呼ばれています。弁慶が平泉寺を訪れた際、平泉寺の鐘を鳴らし、音が鳴りやむまでに約35キロメートル先の鳴鹿(なるか)地区まで走ったという言い伝えがあります。塔を背にして立つと足が速くなり 、塔の方に向いて立つと足が遅くなるとも言われています。
昔は毎晩あかりが灯されました。村の若者が「良いお嫁さんをもらえるように」と願いを掛けて石をひろい常夜燈の傘の上に向かって投げたと言います。傘の上に石がのると願いが叶うそうです。
この中には二つの大きな石が祀られています。二つ同時に天から降ってきたものと伝えられ、縁結びの神様とも言われています。
「と之蔵」建物の裏手に東尋坊屋敷の井戸があります。観光名所として有名な福井県坂井市の東尋坊ゆかりの場所です。
平安時代の終わり、白山平泉寺に東尋坊(とうじんぼう)という僧がおりました。東尋坊は才がありながら怪力で横暴であったため他の僧から疎まれていました。1182年(寿永元年)、僧たちは春の例祭の宴会に合わせ東尋坊を誘い、三国の安島浦(現在の坂井市三国町安島)で酒で酔わせて崖から突き落としてしまいます。すると天気が崩れ海が荒れ狂い始めました。この井戸は東尋坊の住まいにあり、突き落とされた日から7日間血の色に染まったと言われています。
菩提林に700メートル続く石畳の参道は、千年前から現存する道路です。石畳に使われている石の裏には法華経の文字が書かれており、僧達が経文を唱えながら女神川(おながみがわ)から手渡しで運んで石畳を作ったと言われています。
石畳の道はかつてもっと奥まで続き、西念寺の横を通り坊地の池の奥あたりまで続いていたようです。石畳は、1986年(昭和61年)に日本の道100選に指定されました。
修行の場へ至る参道入り口から続く林は菩提林と呼ばれてきました。菩提とは、煩悩を断ち切り悟りの境地へ至ることを意味します。杉並木のようですが、杉の大木だけではなく、高山にしかないブナの大木や珍しい沙羅やヤマナシの老木もあります。千年の歴史を感じさせる厳粛な雰囲気です。
その昔、昼でも暗い菩提林の中を参拝者が進むと、大きな牛と馬が道いっぱいに横たわっていて遮っていました。たいていの人は逃げ帰りますが、ある男が毎晩牛と馬を飛び越えてお参りを続けました。夜が明けると牛と馬の姿はなく、道の両側に二つの大岩になっていたという言われのある岩です。
菩提林の入り口に橋があります。この橋は下馬の大橋と呼ばれています。人々はここで馬を下りて、川で汗をぬぐい、身を清め、ここから先は歩いてお参りしたそうです。川でみそぎをしている姿が古い書物に描かれています。
卵塔とは卵の形に似た石塔のことで、焼き討ちの後平泉寺を再興された顕海僧正の徳をいたみ、第一歩の場所として建てられました。
その昔、九頭竜川のことを筥川(はこがわ)と呼んでいました。泰澄が渡ろうとしたとき船がなく、船頭が箱に乗せて渡したという言われがあります。
平泉寺の名称由来の池。泰澄が清水の湧く地に向かい祈っていると、一人の女神が現れ「私の本当の姿は白山の頂上にある。早く登ってきなさい」と告げ、泰澄は女神の導きにより白山の頂上を目指します。この池は昔「平清水」(ひらしみず)と呼ばれ、平泉寺の呼称のもととなっています。女神の立たれた岩は池の中央にあり「影向岩(ようごいわ)」と呼ばれています。
浄土真宗の布教のため蓮如(れんにょ)上人が白山平泉寺を訪れました。そのとき白山平泉寺の修行僧のひとりだった智光坊(ちこうぼう)が浄土真宗と蓮如の教えに感化され、名を西念(さいねん)と改め西念寺を起こします。なお、西念時の入り口には蓮如上人が腰を掛けたという岩が残されています。
現在は舗装されていますが、西念寺の北西角の谷川に掛けられている橋の下を指します。昔は2枚の大きく平らな石が橋の代わりとなっていて、その橋の下を流れる水の音がシャリシャリと小豆をかしぐように聞こえました。今も側溝に水が流れており、その音はどこからかシャリシャリと聞こえるようです。