平泉寺白山神社の歴史

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泰澄大師による白山開山と当社の始まり

当社は養老元年(717)の泰澄大師による白山開山からほどなく、泰澄自身の手によって創建されました。当時は平泉や平清水(ひらしみず)と呼ばれていたことが知られています。

泰澄は越前(福井県)の人で、越知山(おちさん)で修行し、女神(白山大神)の招きに応じて、同年4月1日勝山の地を踏まれ、さらに東の林泉にたどり着かれました。現在も、平泉寺白山神社の一角にあって滾々(こんこん)と水が湧き出ている御手洗池(おみたらし、つまり平泉)がそれにあたります。その泉のほとりで祈っていますと、ふたたび女神が、泉の中の影向石(ようごいわ)に出現、白山登拝を促しました。そこで泰澄は、二人の行者、淨定行者(きよさだぎょうじゃ)と伏行者(ふせのぎょうじゃ)とを伴って、白山に十泊以上かけて登拝されました。これが白山の開山と伝えられているものです。

御手洗池(おみたらし)

平泉は「坂の下から湧き出る泉」をいい、「ひら」は坂や崖を意味する非常に古い古語です。

三人は山頂での千日におよぶ修行ののち下山、御手洗池(平泉)のほとりに白山大神(女神、伊奘册尊/いざなみのみこと)を祀る祠(ほこら)を建て、その傍らにお住まいになり修行に励まれました。これが当社の始まりです。

延暦寺の庇護による整備と勢力の伸張

泰澄大師は、それから、夏の間は白山山頂で懸命に白山神を拝され、それ以外の期間は平泉の地、あるいは白山麓の各地で修行されたようです。その名は段々知られるところとなり、疱瘡(ほうそう)が流行した時などは京都にあった朝廷より招かれ祈祷をされました。

晩年には、最初の修行地であった越知山麓(おちさんろく)に戻り、その地で神護景雲元年(767)逝去されました。八十六歳でした。

平泉(平清水)や白山の名前も次第に有名になり、白山で修行したいと希望する高僧や貴族も増え、越前(福井県)側の登拝道以外に加賀(石川県)・美濃(岐阜県)側からの登山道が整備されたのは、平安期の天長9年(832)のこととされています。

中宮白山平泉寺境内図 部分(平泉寺白山神社所蔵)

もともと、土地の有力者による庇護のなかった平泉の、そののちの実状は必ずしもわかりません。それを一変したのは、比叡山延暦寺による平泉での講堂落慶でした。近時、神奈川県立金沢文庫から見つかった資料によって、当社で承安2年(1172)講堂が建立、導師を招いて落慶法要が営まれたことが明らかとなりました。この時、それまで平泉と呼ばれていたのを改め、それに寺を付けて平泉寺と称するようになりました。当初は「ひらいずみでら」と発音され、ほどなく「へいせんじ」と音読するようになったと考えられます。

中世六千坊時代の盛時と一向一揆による滅亡

白山信仰の越前側の拠点となった平泉寺は、越前馬場、白山平泉寺、室町中期以降は中宮平泉寺などと呼ばれ、現在の勝山市の大部分を領有したほか、福井市の東半分を占める藤嶋庄(ふじしまのしょう)からの収入もあって、いつしか越前で有数の勢力となりました。室町時代の最盛時には、四十八社三十六堂社領九万石六千坊と称され、政治また経済面のみならず、文化や芸能にも見るものがありました。これらも、元をたどれば白山への信仰から出発していて、越前の山深い豪雪地帯にあって花開き、伝わっていったのでした。

平泉寺の隆盛を垣間見ることができて興味深いのは、大永4年(1539)に平泉寺で行われた臨時祭礼、つまり児(ちご)の流鏑馬(やぶさめ)で、その折の金銭出納帳が残っています。臨時であるにもかかわらず、米四百八十五石(現在の24,250,000円/1石50,000円で計算)に相当する費用が宛てられており、盛儀であったことがうかがわれます。

しかし、勢力が大きくなるに従って平泉寺内部には不和が生じ、折から係争中の一向一揆勢力によって、当社は天正2年(1574)全山焼失しました。実力者であった宝光院と玉泉坊兄弟の仲が悪く、有力者朝倉氏滅亡の危機に際し、兄弟それぞれの思惑も手伝って平泉寺は分裂し争いました。そして、ついには五キロほど離れた村岡山(むろこやま)の方に出陣していた隙をつかれて、村内に侵入した一揆勢の手によって放火され、当社は自滅するように灰燼に帰したのでした。

中宮白山平泉寺境内図(平泉寺白山神社所蔵)

顕海僧正による再興と白山山頂での祭礼奉仕

この事態を予見していた平泉寺の学頭賢聖院(げんじょういん)顕海(けんかい)僧正は、専海(せんかい)・日海(にっかい)のお弟子二人に、急いで重要で持ち運びのできるものをまとめさせ、九頭龍川上流の越前美濃国境付近の桔梗原(ききょうがはら)に落ちのびました。そして、そこに住んでいた原家(はらけ)の世話になりつつ雌伏すること十年、天正11年(1583)春、頃合いを見計らって三人は平泉寺に帰山しました。一面は焼け野原のままでしたが、旧境内の一角に廬(いおり)を営み再建に着手しました。有難かったのは、豊臣秀吉がすみやかに朱印状を下し、平泉寺そのものが安堵されたことです(秀吉の庇護を受け安心して生活することができました)。

滅亡直前の姿に復することは、白山山頂での祭礼奉仕をそのままつづけることを意味し、早くも同年6月18日、顕海の意を受けて専海が奉仕しました。金森長金や長谷川弥八郎ら近在の城主また有力者の援助を受けつつ、白山山頂部分の諸社から始まって、平泉寺境内では、三社(大御前社つまり本社、越南知社、別山社)・大師堂(開山堂)・納経所などが次々に再建されていきました。

六千坊ともいわれた人々はほんの一部が帰ってきたのみであり、社領九万石もほとんど手放さざるをえませんでした。それでも、江戸時代の全期間を通じて白山山頂での祭礼を幕府より公認され、白山麓の山林の堺をめぐって加賀側との争論に勝ちつづけることができたのは、泰澄大師による白山開山や当社の由緒を、江戸幕府が認めたからにほかなりません。

明治期の神仏判然令によって白山信仰の神社に戻る

時代は明治維新へと進み、明治4年(1871)、白山は、それまで北国白山と称された特別行政区ないしは幕府直轄の天領でしたが、加賀(石川県)に編入され、わずかに越前松平家などより寄進された所領も全て停止されたので、当社は非常な困難に直面しました。同時に神仏判然令(神仏分離令)が出され、以降は、仏教的要素を廃し平泉寺を白山神社と改める旨の指令があり、面目を一新しました。

天正2年(1574)の滅亡後、元のような大きな都市として復興しなかったため、かつて六千坊とも称された白山登拝の越前側の一大拠点は、大部分がそのまま地中に埋もれているのです。雪深い北陸の奥地にあって、白山信仰を全国にひろめた霊場の、わずか1パーセントが発掘によって日の目をみたに過ぎないとはいえ、白山神社境内の参道は雄大で、杉並木や境内を覆う分厚い苔が広がった絶景は、在りし日の偉容を今に伝えていて、多くの参拝者を魅了しています。

南谷坊院跡(みなみだにぼういんあと)復元
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