西暦(和暦) | 平泉寺での主なできごと 勝山市内・国内での主な動き |
710 (和銅3) | 平城京へ都を遷移す。 |
717 (養老1) | 泰澄大師、白山を開く。 |
794 (延暦13) | 平安京へ都を遷移す。 |
832 (天長9) | 白山信仰の拠点として、越前、加賀、美濃の三馬場が開かれる。 |
850(嘉祥3) | この頃、僧宗叡、越前国白山にいたる。 |
958(天徳2) | 泰澄和尚伝記なる。 |
1147(久安3) | この頃、貴族の日記や記録に越前白山、越前国白山社、平清水などとみえる。 |
1163(長寛元) | 平泉寺の初見、ただし、当初は「ひらいずみでら」で、やがて「へいせんじ」と音読されていった。 |
1172(承安2) | 延暦寺の後援によって大講堂落慶、この頃には一般にも平泉寺と称され認識されるようになる。 |
1183 (寿永2) | 源(木曽)義仲、藤島七郷を平泉寺に寄進する。 |
1214 (建保2) | 京都の青蓮院と梨本坊、平泉寺の長吏職を争い、後白河法皇の院宣で青蓮院の実暹が任命される。 |
1292 (正応5) | 時宗二世他阿、府中で平泉寺僧に乱暴される。 |
1325(正中2) | 現存最古の泰澄和尚伝記が書写される |
1333 (元弘3) | 平泉寺衆徒、大野郡牛原荘の地頭淡河時治と戦う。時治敗れて自害する。 |
1440 (永享12) | 平泉寺、火災のために焼失する。室町幕府、北陸道七か国の棟別銭を平泉寺造営費用にあてる。 |
1471 (文明3) | 朝倉氏、一乗谷を本拠とする。以後、平泉寺は朝倉氏と結ぶ。 |
この頃、平泉寺から三光坊、財蓮、大光坊などの面打師が輩出する。 | |
1493 (明応2) | 平泉寺杉本坊の杉本栄祐、京都で神符と丸薬を販売する。 |
1500 (明応9) | 平泉寺西蓮院の豪仙が白山権現講式を書写する。 |
1524 (大永4) | 平泉寺で臨時祭礼があり、流鏑馬神事が奉納される。 |
1573 (天正1) | 朝倉氏滅亡、平泉寺も内部抗争に端を発して、一向一揆勢と対立する。 |
1574 (天正2) | 平泉寺の衆徒、一揆勢の立てこもる村岡山を攻撃する。宝光院等の衆徒が討死にし、平泉寺も攻撃され焼亡する。 |
1575 (天正3) | 柴田義宣、勝山に入る。 |
1580 (天正8) | 柴田勝安、本拠を村岡山より袋田村に移し、勝山と改称する。 |
1583 (天正11) | 顕海が美濃より帰還し、平泉寺を再興する。羽柴(豊臣)秀吉、平泉寺に禁制札を与える。 |
1601 (慶長6) | 福井藩主結城秀康、白山御供田として平泉寺村のうち高200石を寄進する。 |
1603 (慶長8) | 徳川家康、江戸幕府を開く。 |
1624 (寛永1) | 徳川家光、白山社領として平泉寺村のうち高200石を安堵する。 |
1626 (寛永3) | 福井藩主松平忠昌、白山社領として野中村(永平寺町)のうち高100石を寄進する。 |
1630 (寛永7) | 勝山藩主松平直基、白山社領として平泉寺村より高30石を寄進する。 |
1631 (寛永8) | 平泉寺、上野寛永寺末となる。また、一山衆徒心得を決定する。 |
1668 (寛文8) | 白山麓十六か村と尾添・荒谷村、幕府領となる。 |
1702 (元禄15) | 勝山藩主小笠原貞信、平泉寺村のうち高30石を安堵する。 |
1732 (享保17) | 白山争論。白山天嶺は平泉寺境内と、幕府が裁許する。 |
1795 (寛政7) | 福井藩主松平重富、平泉寺白山社の本社殿を造営する。 |
1859 (安政6) | 平泉寺白山社の拝殿が再興される。 |
1868 (明治1) | 明治維新 |
1870 (明治3) | 平泉寺寄進地領がすべて没収となる。平泉寺の名称を廃し、白山神社となる。 |
1873 (明治6) | 白山天嶺の三社が白山比咩神社の所管となる。 |
1930 (昭和5) | 社務所にある旧玄成院庭園、国指定名勝となる。 |
1935 (昭和10) | 白山神社境内、平泉寺城跡として国指定史跡となる(約14.6ヘクタール)。 |
1989 (平成元) | 平泉寺坊院跡などの発掘調査が開始される。 |
1997 (平成9) | 史跡白山平泉寺旧境内として、約200ヘクタールに史跡拡大される |
2012(平成24) | 「白山平泉寺歴史探遊館 まほろば」オープン。 |
2019(令和元) | 文化庁より日本遺産の指定を受ける。 |
2025(令和7) | 御開帳(5月)。 |
「泰澄和尚伝記」「平家物語」「太平記」「朝倉始末記」「平泉寺文書」「白山神社史」「平泉寺史要」「勝山市史」などをもとに作成したものです。