建築・文化

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平泉寺の建築・文化について

公家や貴族、武家をはじめ百姓まで白山平泉寺に入門したと言われています。
学識のある僧侶や和歌や木工に優れた僧侶が集い、建築面でも優れた人材を輩出しました。

境内をはじめ村中の至るところに残る石垣や石畳の道に見られるのは、石組みの優れた技術で、白山狛犬、鬼瓦なども秀逸です。
能面師として、平泉寺からは三光坊が出ます。出目家(流)の祖で、その門流からはのちの江戸幕府御用達が輩出しました。
当社には能面そのものの逸品は伝わらなかったものの勝山市近在に伝わる能面に見るべきものがあり、福井県内各地の神社に散在して伝わった神事能も源流は平泉寺と考えてよいようです。
平泉寺塗というものがあったこと、紺屋坂の地名から染物屋の存在も明らかです。

建築編

中世時代の当社と拝殿

中世時代、当社の境域は「四至内(ししない)」と呼ばれていました。
艮(うしとら)の虚空蔵、巽(たつみ)の荒神石、坤(ひつじざる)の禅師王子、乾(いぬい)の比島の観音をもってその境界線とし、この4地点を結ぶと四周の一辺それぞれ一里(約4キロメートル)を越えたといい、その内側にいくつもの村が存在していました。

  • 四至内(ししない)・・・田地、屋敷の土地境界とその内側のこと。東西南北の四方の境界(しるし)があり、その内側・境内を指します。
(左)出典:『ものがたり かつやまの歴史(上)』(勝山市)
(右)中宮白山平泉寺境内図(平泉寺白山神社所蔵)

社堂について

白山中宮七社権現(本社、別山社、越南知社の三社の外に、金劍、加宝、三宮、佐羅の諸社を加える)を中心として、神明社、祇園社、天神社、木曽宮などすべて48社、これに附随して大講堂、三重大塔、法華堂、常行堂、不動堂、大師堂、薬師堂、惣門、南大門等、数多くの社堂が並んでいました。

拝殿の大きさ

中央の大拝殿は、南北四十五間八分(約83メートル/柱間二十七) 、東西七間二分 (約13メートル/柱間四)という全国に比類少ない宏大な拝殿でした。残念ながら今はその礎石と鬼瓦が残るだけですが、境内の礎石から大きさを想像できることでしょう。

  • 永禄(1558~1569)の古図および現存の礎石によって計測

平泉寺六千坊の言われ

建築・土木工事も発達しており、その規模や技能は礎石、古図、発掘現場から想像できます。
僧や家族の住宅は「坊(ぼう)」「院(いん)」と呼ばれ、南谷に3600、北谷に2400、あわあせて「平泉寺六千坊(へいせんじろくせんぼう)」と称されました。

中宮白山平泉寺境内図 部分(平泉寺白山神社所蔵)

開山社の礎石から分かること

拝殿の南に、現在は泰澄大師をお祀りする「開山社(かいざんしゃ)」が建てられています。ここは江戸時代には、愛宕社(あたごしゃ) が建てられていたようですが、その前の中世時代の古図からは鐘楼が描かれていました。開山社を建立する際、地面を掘り起こしたところ土中に埋もれていた鐘楼の礎石4つが昔の位置に残っているのを発見しました。古図の記載通りであることが明らかとなった事例です。

文化編

平泉寺の面打師

白山信仰の神事では、しばしば田楽能や猿楽能が演じられていました。鎌倉、室町、戦国時代にわたって能は親しまれていたのです。
室町時代 前期に三光坊(さんこうぼう)という仏師がおり、能面の作家として知られるようになりました。彼の弟子が、近江の井関家・井関親信(いせきちかのぶ)、府中の出目家(でめけ)・出目満照(でめみつてる)、大野の出目家・是閑吉光(ぜかんよしみつ)らです。出目家は桃山時代から江戸時代にかけて能面面打として名を馳せた家系でした。
能面の一部は当社に残るものの、天正の兵火でほとんどが焼失してしまいました。

礎石から想像する建築物、出土した陶器や暮らしの道具から当時の生活文化を知ることができます。
暮らしや文化については「白山平泉寺歴史探遊館 まほろば」で鑑賞することができます。
ぜひ足をお運びください。

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