国名勝 旧玄成院庭園
この旧玄成院庭園は、500年ほど前、室町幕府の将軍を補佐した管領 細川高国 による作庭と伝えられ、昭和5年(1930)旧文部省により国の名勝の指定を受けています。
細川高国は、戦国時代の戦乱のただなかを生き、その生涯を享禄4年(1531)に尼崎で閉じました。享年、48歳でした。
絵にうつし石をつくりし海山を
のちの世までも目枯れずや見ん
という辞世の歌をのこしています。
左手の手前に、仙人の住むという蓬莱島へ向かう船に見立てた櫟の木があります。櫟の木の横の平たい大きな石が礼拝石。その向こうに海に見立てた枯れ池、そして、枯れ池の海の左手に亀島があり、亀はその背中に蓬莱山を表す杉を背負っています。亀の頭は海中にあり、大きな亀手石も見えます。亀の尾は、ダイナミックに瀧の石組にはねあがっているように見えます。右手には鶴島があります。鶴島は凛と立つ鶴のふっくらした羽をも表しています。この蓬莱島の鶴と亀の石組は道教による不老不死の思想を表現したものです。
さらに、亀の左手は石橋となっており、古来橋は、その先が浄土であると考えられています。浄土への石橋を渡り、目を上に向けてみますと、中央の小高い築山の上に立石が見えます。立石をうずまき状にかこむ石組があります。これは古代インドの宇宙観にもとづくもので、仏たちの住む浄土を石組で表しており、立石が世界の中心の須弥山を示しています。
この庭園が造られてより、亀は鶴を見つめ鶴は須弥山を仰ぎ続けて500年。この庭にこめられた思いを、配された石組が今も語っているようです。
細川高国は厄年を前に出家し、京を追われ諸国を放浪したこともあり、蓬莱島や仏の住む浄土への慕わしさをこめて、庭づくりに情熱を傾けた当代一の武将であり文化人でありました。
細川高国の作と伝わる庭園には、三重県の北畠神社の庭園、滋賀県朽木谷の旧秀隣寺庭園があります。また、有名な洛中洛外図屏風 には、細川高国邸も庭園と共に描かれています。