勝山平泉寺
白山平泉寺 まほろば
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境内案内図

現在の境内と、中世に描かれた境内を比べてみて、
位置関係を確認しながら境内を歩いてみよう。

下馬大橋 菩提林 平泉寺旧参道 大門市 東尋坊ゆかりの地 結神社 泰澄大師廟 顕海寺 精進坂 旧玄成院庭園 旧玄成院庭園 御手洗池 二の鳥居 拝殿 本社 大汝社 別山社 三宮 越前白山禅定道 南谷発掘現場
拝殿 下馬大橋 東尋坊 旧玄成院庭園 平泉 大御前 三宮 南谷

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(音声案内あり)

平泉寺の歴史について

ご挨拶

本日はようこそ平泉寺においでいただきました。それではこの歴史ある平泉寺をご案内させていただきます。
この平泉寺は霊峰白山へお参りをするときの登り口として西暦717年(養老元年)に泰澄大師により開かれた霊場です。
泰澄たいちょう 大師が白山山頂を目指して、現在の白山神社の境内にある御手洗池みたらしのいけ の傍らで、祈祷をしていたところ白山の神が現れました。そしてその神に導かれて白山の頂上を極めたと伝えられています。
平泉寺は古くは平清水、白山社はくさんしゃ などと称され平安時代の末期には延暦寺の末寺となり、その後、多くの寄進などもあって次第に勢力を伸ばしていきました。最盛期には48社36堂そして6千の僧坊、寺領9万石9万貫、僧兵8千人を要したといわれ白山信仰の拠点とし栄えました。しかしながら、戦国時代の末期1574年(天正2年)一向一揆の兵火により全山が焼失してしまいました。このときの学頭にあった顕海けんかい は美濃(現在の岐阜県)に逃れました。9年後の1583年(天正11年)に平泉寺に戻った顕海は弟子の専海、日海と共に再興に着手し江戸時代までには境内の中心部が再興されました。1868年(慶応4年)明治政府より神仏分離令が出されました。全国的な運動のたかまりからここ平泉寺においても1870年(明治3年)平安時代以来の神仏習合の伝統が破棄され、神社として分離独立しました。平泉寺と聞いてお寺を連想される方もおられますが、このような歴史を経て今は平泉寺白山神社となっています。一向一揆により多くの建物跡が土に埋もれてしまいました。しかし近年、白山神社周辺での開発工事が進む中、地中から中世の建物跡や陶磁器類が数多く発見されるようになりました。そして平成元年から始まった市の発掘調査によりかつての平泉寺が現在の白山神社境内に比べて十倍以上の広さをもっていたことが判明いたしました。現在も発掘調査が続けられており、膨大な数の僧坊跡や中央に走る石畳の道、排水溝などが見つかっています。それでは苔の宮ともいわれる緑の絨毯を敷き詰めたような境内の青苔の広がり、そして俗界から隔絶された静寂さが漂う平泉寺白山神社を心ゆくまでご堪能下さい。
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下馬の大橋

菩提林の入り口に橋があります。この橋は下馬の大橋と呼ばれています。人々はここで馬を下りて、川で汗をぬぐい、身を清め、ここから先は歩いてお参りしたそうです。川でみそぎをしている姿が古い書物に描かれています。
下馬の大橋
下馬の大橋
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菩提林

参道の林は菩提林と呼ばれています。おそらく父母の冥福を祈るために参拝する人が多かったので、このように呼ばれるようになったと思われます。杉並木のように見えますが、杉の大木だけではなく、高山にしかないはずのブナの大木や珍しい沙羅やヤマナシの老木も見られます。千年の歴史を感じさせる勇壮な林です。
菩提林
菩提林
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参道

菩提林の下のおおよそ700メートルの石畳の参道は、千年前の舗装道路です。ここに使われている石は、おおよそ3千人の僧達が九頭竜川から手渡しで運んだものです。石の裏には法華経の文字が書かれ念仏を唱えながら石畳を造ったと言われています。当時はこの石畳は位の高いお坊様か、来賓の方が通るだけで一般の参拝者は石畳より一段低いところを通ったそうです。またこの石畳は、昭和61年8月に日本の道100選に指定されています。千年の歴史を思い浮かべながら石畳を歩いてみて下さい。
参道
参道
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大門市だいもんいち

平安時代敦賀にいた藤原利仁は、関東の賊軍を成敗に行く途中、戦勝祈願のため平泉寺を訪れました。祈願の結果、戦いに勝つことができた利仁は、平泉寺で一週間どんちゃん騒ぎの戦勝祝いをしました。その時立った市が大門市のはじまりと言われています。現在は四月の中旬から11月の上旬まで朝7時頃から、地元の人達が季節の山菜やとれたての野菜などを売っています。

大門市だいもんいち
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東尋坊ゆかりの地

みなさん東尋坊はよくご存じですね。福井県の有名な観光地です。その東尋坊のいわれの地がこちらです。昔、平泉寺に東尋坊と言うお坊さんがいました。東尋坊はとても力が強く乱暴者で他のお坊さんから嫌われていました。ある日、東尋坊を三国の海辺に誘い出し、お酒を飲ませて崖から突き落としたそうです。すると、急に天気が悪くなり、嵐とともに海は荒れ狂いはじめました。その崖が現在の東尋坊です。
東尋坊ゆかりの地
東尋坊ゆかりの地
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むすび 神社

この中には二つの大きな石が祀られています。この石は二つ同時に天から降ってきたものと伝えられていて、縁結びの神様として拝むようになりました。みなさんにもすてきなご縁がありますように。
結神社
結神社
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泰澄大師廟

平泉寺白山神社を開かれた泰澄大師のお墓です。室町時代に作られたもので、高さは1メートル47センチあり、その時代のお墓としては、たいへん大きなものでした。丹生郡越前町の大谷おおたん 寺にも泰澄大師のお墓がありますが、泰澄の一番の大きな仕事がこの平泉寺を開かれたことであったので、こちらにもお墓が建てられました。
泰澄大師廟
泰澄大師廟
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顕海寺

1574年(天正2年)一向一揆により全山が焼失しました。難を逃れた賢聖院の住職顕海和尚は9年後二人の弟子と共にもどられ平泉寺を再興されました。後に顕海は玄成院を弟子の専海に譲り、自ら寺を建てます。その寺が顕海寺です。寺のご本尊は阿弥陀如来坐像です。一向一揆の時に境内の池に沈められていたものを9年後にひきあげて安置されたそうです。同じく安置されている地蔵菩薩立像は鎌倉時代の作と言われています。二つは共に福井県の文化財に指定されており平泉寺の最盛期の数少ない遺品です。
顕海寺
顕海寺
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精進坂

昔はこの坂より上には魚の持ち込みは禁止されていました。菩提をもとめて煩悩を断じ身を清め心を慎むということで、精進坂と呼ばれています。またこの坂は昔は52段あり、1段の高さが高くてのぼるのが大変でした。現在は84段となりのぼりやすくなっています。
精進坂
精進坂
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旧玄成院庭園

ここは現在、社務所になっていますが、一向一揆で平泉寺が焼失した時、難を逃れた顕海和尚が9年後戻ってきて再興したのがこの玄成院です。ここのある庭園は国の名勝に指定されていて、1530年頃室町幕府の管領細川高国によってつくられたと言われています。自然石を利用した枯山水は見事なものです。お時間がございましたら、ぜひお立ち寄り下さい。入園料は50円です。
旧玄成院庭園
旧玄成院庭園
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御手洗池みたらしのいけ 平清水

この池の中央にある岩は、影向岩と言います。泰澄大師がこの岩に向かってお参りしていると、一人の女神が現れ、「今、私は権現である」と言われました。これが神仏習合のはじまりです。また、「私の本当の姿は、白山の頂上にある。早く登ってきなさい」と言われ、泰澄大師はその女神の導きにより白山の頂上を極めることができたそうです。この池は昔、平清水と呼ばれており、平泉寺の名前の由来はここからきています。
御手洗池平清水
御手洗池みたらしのいけ 平清水
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二の鳥居

この鳥居は権現造といい、鳥居の中央に屋根がついている神仏習合の時代の独特なものです。おそらく日本にはここにしかないと思われます。当時の鳥居は一向一揆で消滅しましたが、1778年(安永6年)に再建されたものです。白山三所大権現の大額は、中御門天皇の皇子天台座主公遵法親王がおかきになられたものです。三所とは白山の御前峰、大汝、別山を言います。

二の鳥居
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拝殿

現在の拝殿は、江戸時代につくられた寄棟檜皮葺で、平安時代の風情をよく残しています。1574年(天正2年)の一向一揆で全焼する前の拝殿は、46間(およそ83メートル)あったと言われており、京都の三十三間堂より大きな建物だったそうです。左右に点在する礎石が当時の大きさを物語っています。拝殿の中には十数面の絵馬があり福井藩主松平家の奉納品が多く、ほとんどが勝山市の文化財に指定されています。その中でも、1598年の絵馬がもっとも古いものとされています。
拝殿
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本社

この本社は1795年(寛政7年)に第12代福井藩主松平重富により再建されたものです。総欅造で外観は白木造ですが、内部は美しく彩られています。またこの本社の龍の彫刻をご覧下さい。大変すばらしいものですね。この本社の扉は33年に一度しかあけられません。次に扉が開けられるのは、2025年(平成37年)です。

本社
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別山社・大汝社

本殿に向かって右の社を別山社といい、天忍穂耳尊をお祀りしています。左の社は大汝社といい、大己貴尊をお祀りしています。本殿とこの二つの社は白山を構成している三つの山をあらわしています。
別山社・大汝社
別山社・大汝社
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楠木正成の供養塔

昔ここは三之宮の拝殿があったところです。楠木公の甥の恵秀律師が拝殿で行をしていると正成が鎧甲の武者姿であらわれました。不思議に思い調べてみると、この日に正成が湊川で戦死していたことがわかりました。そこで石塔をたてて、正成を供養したのです。
1574年の一向一揆の時に拝殿は焼失し、石塔も一部失われましたが、寛文8年に福井藩主松平光通がこれを補修し、周囲に石の柵をもうけました。1336年(延元元年)の作で、歴史上非常に重要なものです。
楠木正成の供養塔
楠木正成の供養塔
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三宮・白山禅定道

三宮は1597年(慶長2年)に建立されました。現在の建物は明治22年に改築されたものです。祀られているのは、栲幡千々姫尊で安産の神様としての信仰があつくお産が軽くなるというのでお参りの帰りに社務所によって腹帯を買って帰る方もいます。また、ここからは泰澄大師が開いたといわれる白山への登山道となっていて、この道を白山禅定道といいます。平成8年11月には、歴史の道100選に選定されました。
三宮白山禅定道
三宮白山禅定道
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発掘現場

1574年(天正2年)の一向一揆で平泉寺が焼失してから、多くの建物跡が土に埋もれてしまいました。しかし最近、家の建て替えや道路工事などで大切な遺産が詳しく調べられることなく破壊されるようになりました。そこで勝山市教育委員会では平成元年から平泉寺の発掘調査を行っています。平成9年には、白山平泉旧境内としておおよそ200ヘクタールが国の史跡指定をうけています。この調査によって当時の生活様式や屋敷の大きさ、数などがわかってきました。昔の平泉寺がいかに栄えていたかこの場所をご覧いただければおわかりになると思います。
発掘現場
発掘現場
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